えんシカク




 さて、借金を背負ったとなれば金を稼がなければならないが、いい意味でも悪い意味でも方法は一つしかない。
 囲碁だ。
 囲碁で稼ぐ、これに尽きるだろう。

「稼ぎます、プロになって……!」

 やる気と希望に満ちた表情で、背後にドドーンと日本海の大波を背負う佐為。
 波しぶきを払い、鬼灯がすげなく答えた。

「そうですね、頑張って稼いでください。極卒のプロになって」



03:○◇



「亡者の裁判、呵責に関わる仕事に就く者を、獄卒と呼びます」

 部屋の中はバタバタしていた。室内に設置されていたベッドやシーツの替え、医療品、それから書類などを、鬼達が撤去しているのだ。皆、頭に一本から三本の小さな角を生やしている。

「彼らもですか?」
「はい。因みに呵責とは、亡者をいたぶり罪を贖わせる――いえ、すっきりすることです」
「あまり聞こえの良くない方に、なぜわざわざ言い直しを」
「方法としては堕ちた地獄に相応しいものが望ましいですが、例えば潰す。切る。粉々にする。埋める――」

 鬼灯は瞬きもせずにこちらを注視している。その真っ暗で小さな瞳孔の中に、呵責される亡者たちの姿があった。潰す、ぐしゃり、悲鳴、切る、ごとり、悲鳴、粉々にする、破片、無言、埋める、首、かくり。
 鬼灯の唇が小さく動くたびに覗く白い牙が、赤い舌が、残虐な光景が、佐為の口を塞ぎ、心を重くする。

「沈・め・る・茹・で・る・虫・に・喰・わ・せ・る・う・ん・こ・食・わ・せ・る」

 唇が動く、牙が見える、舌が……。
 わかっている、相手が罪人であることは。きっと、地獄へ堕ちるまでに沢山の血や涙を他者に流させてきたのであろうことは。それでも――というか、この人今、うんこって言いませんでした?
 しかも、うんこ食わせるって……?

「獄卒となるものは、さらにおぞましきものをみるであろう」
「すごく嫌です」
「まぁ、そうおっしゃらず。24時間営業、シフトは三交代制。あなたの生活スタイルに合わせて働けますよ」
「いえ、仕事内容が無理です」
「明るくてアットホームな職場です」
「仕事内容が無理ですってば。どうしてその説明で、私が喜んで飛びつくと思っていらっしゃるんです? 私がなるって言ったのは、囲碁のプロ、プロ棋士のことですよ」

 実体を持たず、虎次郎やヒカル以外には認識さえしてもらえなかった頃には到底ありえなかった、夢とも言えぬ憧れ。今の佐為なら、プロになって囲碁三昧の毎日を送ることができる。同じく囲碁三昧の毎日を送っている者たちと、共に高みを目指すことができるのだ。
 胸元に手を当て、佐為は穏やかに瞼を伏せた。
 紅と茶色に彩られた景色の中、宇治川の冷たい水の中に足を一歩踏み入れた時。ヒカルの元から消えることになると確信した時。これっきり失われたのだと絶望した未来が、今、自らの手の内にある……。

「志望動機は?」
「はい?」
「志望動機は何ですか」
「動機……? 動機なんて……だって私は、碁打ちですから」
「主観的すぎて意味がわかりません。もっと就活中に言うみたいに言って」

 佐為のほうこそ、何を言われているのか、よく分からない。目を瞬かせていると「冗談です」と言い足したが、笑いの成分が一切入っていない物言いと真顔のせいで、本当に冗談なのかは判断がつかないままだった。
 分かりやすかったヒカルが既に懐かしい。曖昧な笑顔を浮かべた佐為は、続く言葉に、半笑いのまま固まることになった。

「なにしろ、志望されても、プロ棋士制度がありませんので」

 肩が動くほど吸い込んだ息を、使い所もわからぬまま、そっと吐き出す。それも冗談ですか、と言いたい気持ちはあったが、言葉にはならなかった。
 佐為のことをよく知っているようなのに、最初から獄卒しか勧めてこなかった鬼灯。借金を拒否しようとしていた時も、囲碁の腕があれば大丈夫、というような甘言は一切口にしなかった。

 天井を仰ぐ。
 美しい装飾、美しい部屋。細かな差異以外は人間にしか見えない鬼たち。
 けれど、ここは地獄なのだ。彼らは鬼。似ているように見えても角があり、爪は尖り、牙がある。恐ろしい呵責でストレス発散できて――人間とは違う生き物で、違う価値観を持っている。
 佐為はゆるゆると視線を下げた。

 プロ棋士制度がないのは、仕方のないことだ。囲碁に使える時間が想定よりも減ってしまうことはとても残念だが、もう囲碁に関わることもなくなると思っていたことを考えれば、時間が残されているだけでもありがたい。それに、あれだけの額の借金なのだ、返金するまでには随分と時間がかかるだろう。例え仕事と両立していても、一生分の時間を目一杯囲碁に使ったよりも、多い時間を囲碁に充てられるかもしれないという思惑もある。
 だから、プロ棋士になれないのは残念ではあるけれど、良いのだ。仕方がないのだ。
 けれど、ここが地獄で、彼らは鬼で、文化が異なっていて、だから棋士になれないのだとしたら、囲碁は。
 囲碁自体は?

「どうしたんです、佐為さん。今頃チアノーゼですか?」
「……囲碁は」

 大きく見開いた目、動揺に揺れる瞳が、書類を確認しながら金棒で肩の凝りをほぐしている鬼灯に縋る。借金を返すためだけに囲碁の無い世界で生きていかなければならないのだとすれば、佐為にとっては地獄よりも地獄だ。
 痛いのも苦しいのも嫌いな佐為が自死を決意したのも、それが耐えられなかったからこそだったのに、ここでは死んでもどこにも逃げられない。

「囲碁はっ……!」

 想いばかりが溢れて言葉不足ではあったが、パニック寸前の迷子のような逼迫した表情で、大体のところを察したらしい。鬼灯は、感心と呆れがないまぜになったような顔をした。

「いやぁ……流石、長いこと基盤の亡霊をやっていただけあって、執念がすさまじいですね。借金から逃げようとしている時よりも、よほど必死とは」
「鬼灯さんっ!」
「……ありますよ」

 その顔を、じっと見つめる。その言葉に嘘がないか。その瞳に嘘がないか、息を潜めて探し出す。大丈夫なことを確認して漸く、大きく息を吐き出した。
 力みすぎて、なんだか頭がくらくらする。佐為は壁に身を預け、潤んだ目元をこっそりと拭った。

 良かった、本当に。
 囲碁という文化が無いというようなことではなくて。碁石に、基盤に再び触れる夢。つい先程取り戻した希望を叩きつけられるようなことにならなくて……。

 けれど、囲碁があるのにプロ制度がないというのは不思議だ。
 勝負事ともなれば勝ちたい者も強い者も出てくる。自分は然程強くなくても、強い者同士の対局を見たい欲求も出てくれば、強い者にコツを教えてもらいたいと考えるのも自然な成り行きだろうに。

「なぜ、プロ制度が? 地獄では、獄卒以外のお仕事が許されていないのでしょうか? それとも、身分の問題ですか?」
「いえ、単に需要がないだけです」
「囲碁人口が少ないということですか? でも、だからといって需要がないわけじゃないはずですよ」

 娯楽が増えた平成の世では、囲碁は斜陽と言われていた。ヒカルなんて、出会った時には老人の遊びだとまで言って、囲碁のことを殆ど何もしらなかったくらいだ。中学の囲碁部なんて、人数が足りなくて、大変で……。
 それでも、囲碁を好きな者はいる。命を燃やして学ぶ者もいる。人数は少なくとも、この熱意が、囲碁が、消えることはないと信じられる。
 信じたからこそ、託すことができたのだ。

 そこまで考えてから、ふと、佐為は自分自身の手を見つめた。
 これを実体と呼んで良いのかはわからないが、壁に触れられる手、他者に触れられる手だ。手だけではない。姿も声も、他者から認識されている。佐為として囲碁を打ち、語り合うことができる。
 ならば、託した想いは、まだ佐為の中にもあるということではないだろうか。遠い未来の一手のため、与え、与えられる灯火が。

 この身がある幸福――佐為の口元に、桜のような笑みが浮かぶ。
 囲碁がないかもしれないことを、なぜあんなに恐れたのだろう。死んだつもりが地獄で、鬼で、暴力で、借金で、少し混乱していたのかもしれない。囲碁がないのなら、佐為が囲碁を広めれば良いだけの話だったのに。

「そうだ、私、囲碁教室の先生をやります。囲碁人口が増えれば、棋力の底上げにも」
「そういう職業もありません」
「なくても、つくれば――」
「誰が? 誰の金で?」

 ぴしゃりと跳ね除けた鬼灯が、視線で佐為に釘を刺した。

「言っておきますが、地獄に囲碁の一大ムーブメントを、なんて野望は借金を返す目処が立ってからにしてくださいね。基本的に利息を発生させないこととなっていますが、一ヶ月毎に返していただきたい最低金額は別途設定しています。それを返していただけない場合、その分についての利息は発生しますから、雪だるま方式に増やさないようにおねがいしますよ。まともな職を用意するのは、返済能力を認めている間のみですからね」
「まとも……?」
「まともでしょう、公務員ですよ。しかも、現世と違って単に安定性があるだけではなく、憧れの職業という位置付けでもあります」

 鬼にとってはそうかもしれないが、佐為にとっては違う。
 なんと言えば分かってもらえるのだろうかと視線をうろつかせた佐為の目に、ふと、自分の足元が映った。裸足なのには気づいていたが、よく見ると服も佐為のものではない。裾が少し乱れた、そっけないくらいに真っ白な着物。
 佐為が死する時に着用した浄衣も真っ白といえば真っ白だけれど、あれは下にきちんと単も着ていたし、絹だって上等なものだった。対してこちらは――木綿? しかも、なんだか違和感があると思ったら、左前だ。

「あっ、死者だからですか! 死装束!」

 いろんなものを通り越して一瞬楽しくなったが、ふと嫌な予感がしてハッと頭に手をやった。スカッと空を切る手。真顔になる佐為。スカッ、スカッ。
 スカッ、スカッ、スカッ、スカッ

「なっ……ない……」
「おや、」
「……いやーあぁ! 烏帽子が無い! 烏帽子がない!」
「でましたね、平安貴族名物『烏帽子がない』」
「あー、なんか懐かしいですね。昔はあちこちで亡者が叫んでましたね」
「千年経ってたんだなぁって思いますね、こういうのを聞くと」

 なごみ顔と無表情が拍手をしながらのんびりと言葉をかわしているが、佐為にはそれどころではない。何しろ烏帽子である。いわばパンツ。いわばモラル。烏帽子を被らず人前に出るだなんて、下半身を丸出しにして人前に出てるのとほぼ同義。
 千年も生きていると、烏帽子をかぶっていない人をみて「きゃっ」なんて気持ちは流石になくなっているが、己のこととなると別なのだ。頭を抱えてキャーキャーと動き回る佐為を、やわらかい声が慰めた。

「大丈夫ですよ。誰も佐為さんを見て笑ったりしなかったでしょう?」
「今どき烏帽子被ってるほうが珍しいですからね。まぁでも、良かったんじゃないですか、今後も烏帽子を被りたいのなら。古過ぎて、被ってても逆に恥ずかしくないレベルまで来てますから」
「あ、たしかに」
「ちょっとだけ流行遅れって、一番恥ずかしいですよね」
「あはは。あ、でもかなり昔の流行でも、やっぱり無理なのもありますよね。黒歴史でしかないやつ」
「髻とかですかね」
「ぶっふ」

 慰めになってない。むしろ気にもしてくれていない。
 頭を手で隠しながら、佐為は涙目で抗議した。

「二人共酷いっ」
「とりあえず、これから地獄の監査に行くので、佐為さんも着いてきてください。獄卒の仕事をお見せします」
「無視しないで! いやぁっ、お外行きたくない、私を見ないでくださいぃぃぃぃ」

 頭を抑えながら身を捩って抵抗する佐為の襟首をむんずと掴み、引きずり歩く。
 そこに自由意志という概念はない。

「一口に呵責と言っても仕事はいろいろですから。興味を持てる仕事もきっと見つかりますよ。あ、豌豆さん、手続きのほう、よろしくおねがいしますね」
「いやーっ、遠藤さん~~~!」
「豌豆です」
「遠藤さ~~~~ん!」

 鬼灯は力持ちだった。抵抗して足を踏ん張る佐為を引きずって歩いているのに、タイヤ付きのカートでも持って歩いているかのように足取りが軽い。裸足のかかとが床にこすれて、抵抗すればするだけ摩擦が酷いことになる。
 我慢比べにはすぐに降参した。佐為はもともと痛みに弱いし、佐為の足首が削れてもこの男は気にしないだろう。

「わかりました、お供しますから、烏帽子は、烏帽子だけは……!」
「仕方がないですねぇ。じゃ、はい。手ぬぐいあげますから、ほっかむりにでもしてください」

 渡された手ぬぐいは、出目金柄だった。さすが地獄というべきか、殺されている真っ最中と言った感じの不気味かつ必死な顔つきをしている。
 叫び声でも聞こえてきそうな絵面を目前に広げ、佐為は遠い目になった。

 瀕死の出目金か、モラルか。それが問題だ。
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webclap

・髻(みずら):聖徳太子などで有名な、あの髪型。幼少期の佐為もやってた可能性がある。想像してみると可愛い。



執筆2017/10/06