廻る、廻る、果ての見えぬ四角い宇の中
黒と白の宙がぐぅるぐる、ぐるグル、リ
あちらへ廻り、こちらへ廻り、頂きへと舞い上がっては、地を踊る
一曜から伸びる七本の経緯線、掛ける事の九の間を自由自在に
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる、ぐぅるぐぅる
あゝなんて美しい
佐為も、佐為も廻っている
円になり、四角となりて、線へと変わり
碁と共に宇宙を巡り、宇宙を踊り、宇宙を見下し、宇宙を見上げる
溶けて、混じりて一つとなる
ずぷずぷとっぷり、とととと、と。こぽり
あゝ、あゝなんて心地よい
――うふふ、なんて楽しいんでしょう
――なんて、なんて。美しいんでしょうねぇ
地も天も時も、全てはこの身の内に
全てこの身は、地と天と時の内に
01:○◇
真理の世界は賑やかだ。
光は飛魚のようにパチパチと弾け、天から地からは祝福の合唱が鳴り止まぬ。舞い散る花びら、飛び交う線、消えては現れる点、それら全てを吸い込む闇の、低ゥ……く響く、底の底。
無と全が入り乱れる中心で、佐為は世界の全てを享受し、世界の一部となる。
空を見上げてゆったりと、舞うように回転する佐為の口元には、蓮のような微笑みが浮かんでいる。蕩ける瞳。絶え間ない音楽。
くぅる、くぅる、くぅるり、くるり。
動きを追いかけ、白い大袖が靡く。腰より長い黒髪も、今は重力から開放されていた。まるで水の中にいるかのよう。けれど、この場所を満たすのは水ではない、真理だ。
その素晴らしさ、この眩しさよ。
(笑っていますね)
(はい)
(一昨日からでしたっけ)
(気づいたのはそうですが、数値を見返すと、どうやら五日か六日頃から既に変化があったようでして)
遠くに聞こえる声は、寝入り端、額に落とされた母のくちづけのように、ただただ優しく、そして遠い。とんでもなく間延びもしていて、何か意味のある言葉なのだとすら、気づかなかった。
「少しずつ覚醒に向かってはいるようなんですが、まだ起きません」
「既に魂魄は揃っているんですよね?」
「そのはずですが、何しろ前例の無い事なので――魂魄が揃っても、某かの欠損が残り、起きないままという可能性も否定はできません。お忙しい中足を運んでいただいたのに申し訳ないのですが、もう暫く掛かるかも」
「あぁ、そんなことは気にしなくていいですよ。起きないのなら、起こすまでですから」
――うふふふふふふ、あぁ、巡る、廻る
蕩けるような眼差しで目元を紅に染め、風に遊ばれる木の葉のように内側の世界を舞い踊る佐為。
彼は気づくべきであった。意識の遥か遠く、外側の世界で交わされる言葉の端々から醸し出される不穏な気配に。
遥かに遠いようでいて、その実、手を伸ばせば触れられるほど近しい、内と外の距離に。
高い場所にある格天井をバックに、男がすっと片手を挙げる。
地は黒、袖先だけ赤に染められた口の広い袖が、するりと肘のあたりまで垂れた。現れた前腕は生白いが、日常的に使っているのであろう実用的な筋肉で、がっしりとしている。その腕が、寝台の上に横たえられた佐為の頬に向かって予備動作も無しに振り下ろされた。
――なんの予備動作も無しに振り下ろされたのにも関わらず、残像が見えぬ疾さであった。
ベブシドゴブッ
佐為の顔が左にしなりながら変形したかとおもうと薄い掛け布団と共に緩い放物線を描きながら寝台より転げ落ち、仕上げに額と鼻を硬い床に強かに打ち付けた、一連の流れを音にすると、こんな具合である。
もっとも、強制的に真理の世界から引き戻されたばかりの佐為には、痛みの原因は勿論、己がいかに間抜けな格好で身悶えているのかさえもわからない。混乱と恐怖に「何が」と、何を誰に問いたいのかもわからぬ心でフガフガと口を開きかけた所を、片側にばかり重いものを乗せられたシーソーのように床にへばりついていた上半身を、ぐいと持ち上げられる。
一瞬目の前に人の顔が見えたような気がしたが、それが脳内でシナプスに繋がる前に、今度は左頬に激痛が走った。
パンッ
パンパンパンパンパンッ
右、左、右、左。
怒涛の勢いで交互に頬を張られ、息をする間も無い。当然声も出せない。襟首を捕まれ、身体が縫い付けられたように動けない中、首だけが衝撃の度に百八十度回転する。
「……!……!……!……っ!」
「うーん、まだ起きませんか。これだけ叩いているのに……」
パパパパパパンッ
「……鬼灯様、その亡者、多分起きてます。あと、それ以上やると今度は気絶しかねません」
「うんともすんとも言いませんが」
「本当は分かってておっしゃっていますよね?」
しばしの沈黙。次に舌打ちが響き、襟首を開放される。
幸いにも、というべきか、痛みと耳鳴りと頭痛により、彼らのやりとりは佐為には一切聞こえていなかった。そもそも他に人が居る事からして把握できていないのだから、その人が恐怖と混乱の原因であることが分かろうはずもない。首が左に傾いたままの状態でハッハと短い息を繰り返すうち、思考よりも先に目の焦点がゆっくりと合いはじめる。
自然と、ひときわ存在感のある朱色に目が引き寄せられた。
あちこちに直立するそれらは、天井を支える為に設けられた柱だった。佐為が抱きついて腕を回してもまだ足りぬ位、一本一本が太い。頼りがいのある線につられるようにして天井をぼんやりと見上げると、こちらは翡翠色と白を基調に、細やかな絵画が描かれている。視線を戻せば、壁には丸いステンドグラスの窓がいくつもはめ込まれ、外からの光に色を添えていた。
視界が歪み、佐為の目元から涙の粒が溢れ落ちる。真珠のような涙は赤く腫れ上がった頬をじりじりと焦がしながら転がり、白く細い顎を伝って袂を染めていった。
頬がいつもの十倍に膨れ上がっているかのようだ。指先でそっと触れるだけでも飛び上がるほど痛い。少し空間をあけて頬を庇う、手のひらと頬の間がひりつく様に熱かった。
なんて美しいんでしょう。それに、なんて痛いんでしょう。
降り始めの雨のように不規則なリズムで、涙が布に落ちる。細い眉尻をハの字に曲げ、じりじりと身を小さくしながら泣く彼を、躊躇なき衝撃が再度襲った。
「べぶっ!」
整った顔が横からの衝撃に潰れ、涙と唾が飛び散る。
「一泣き毎に一発です」
理解は追い付いていないが、泣いている場合では無い事は本能的に分かった。涙目で顔をあげると、二対の目が佐為を見下ろしていた。
でこぼことした組み合わせの二人だった。
一人は子供のような背丈で、もう一人は大男。一人は色の明るいパーマで、もう一人はストレートの黒髪。一人はどんぐりまなこで、一人は目つきがすこぶる悪い。
雰囲気から何から、かけ離れている二人であるが、どちらも少し変わった格好をしているという点では、よく似ていた。額に妙な突起物をつけているのが何よりの特徴だが、衣服も少し変わっている。平成の世で皆が着ていたような物でもなく、江戸時代の着物とも少し異なる――
「目は覚めましたか」
「…………」
佐為は俯き、己の手のひらを見つめた。
そもそも。ヒカルの一手を見届けて。
――己は、消え――
「覚めてないなら」
「え?」
低い声に加わった威圧感が、佐為を物思いから引き戻す。再度顔をあげると、目つきの悪い方の男が、先ほど以上に据わった目つきで佐為を見下ろしていた。顔は正面を向いたままで、瞳孔だけが蔑むようにこちらを見下ろしているのが恐ろしさに拍車をかける。のんびりとした性質の佐為でも、身の危険を感じる程の黒いオーラ。
ざっと音がして、二人の距離が一歩分近づいた。すっとあげられる白い腕と、はらりと舞う赤と黒の袖口。
「もう何発か、サービスしますけど」
彼が右手を素振りすると、空を切るビュオッビュオッという重低音が聞こえてきた。とてもではないが、素振りの音とは思えない。佐為の横髪が風に煽られて踊る。
白い腕からは想像もできない怪力振りに青ざめた佐為は、先ほどまで自分の両頬を襲っていた嵐の原因に気がついて、男を指した。
「っあ――っ!? あなたですね、さっきの、すっごく痛いのっ!」
雉も鳴かずば撃たれまい。
佐為の生存本能の欠如とも取れるようなマイペースさは相手の戦意を削ぐ事もあるのだが、今回の場合はむしろ増幅させたようだ。男がすっと目を眇めると、これ以上は無いと思っていた威圧感のようなものが、ゴォっと大きく音をたてた。
「あぁ……別に、仕事を増やされた鬱憤は早めに晴らしとこうだなんて考えてないですよ?」
宥めようとするような声音で、その実煽っている。しかも、手が素振りをやめていない。ビュオッビュオッ。
更にもう一歩踏み込まれ、佐為は慌てて空へと逃げようと手足に力を込めた。
「っえ?」
が、尻の位置が少しずれただけだった。
浮き上がれ、と念じればいくらでも浮き上がる身体であったはずなのに、何故こんなにも重い……?
おかしいといえば、痛みがあることも、またおかしい。
佐為は宇治川に身を沈めて死んだ。肉体は遠に消え、痛みという感覚からも離れて久しいというのに、何故。
(…………!)
柳眉を顰めて悩む佐為の真ん中を、閃きが突き抜けた。
打たれて痛かったということは、相手に触れられたと言うことではないだろうか。触れられる。人を。物を。今もほら、ひんやりとした床に触れている。手を動かせば、タイルとタイルの間の溝の感覚まで――さわさわと触り続ける佐為の中で、閃きが答えに到達する。
触れる!
碁石に、触れる!
そうと直感した瞬間、胸を満たした想いを、なんと形容すればいいのだろう。現在置かれている状況への疑問も痛みも、全てが意識の彼方へ飛んでいったのは確かだった。
彼を満たすのは歓喜。夢。懐古。碁石への想い。想い。想い――浮かされたような表情で立ち上がる、その襟首を、後ろから現れた手がむんずとつかんで邪魔をした。
「ちょっと、どこへ行くんですか」
なんて当たり前のことを聞くのだろう。
囲碁のことで、頭どころか身体までいっぱいになっている佐為は、答えることもせずにそう思う。そのまま振り払って行きたい所であったが、怪力相手では己の首がしまるだけで、ちっとも前に進めない。
眉を怒らせ、前のめりになりながら佐為は叫んだ。
「離してください、碁石が私を待っているんです!」
「よくわかりませんが、勝手なことをされては困ります」
「碁石が――あぁもう、手を離してくださいってば! 今、行かなくては」
今?
なぜ今に拘るのだろう。なぜこんなにも、焦っているのだろう。人とまともに会話もできないほどに。
男の腕から逃れようと上半身に体重をかけながら、自問する。探すまでもなく、答えは胸のうちにあった。ぽろりと言葉が転がり落ちる。
「またずっと……碁石に、触れないかも、しれな、い」
死した後も囲碁に携わる事ができた事に、感謝すべきだと思おうとしていた。石の感覚はきちんと心の中に残っているから、それで良いのだと。この身が消えて、囲碁に関われなくなることのほうが耐えられぬと。
けれど。本当は、本当は、こんなにも求めている。
千年もの間、何度も何度も反芻した、石の感覚。碁盤に置いた時の、あの、音。幸福感、一体感――捨てざるを得なかった、佐為の一部が、今、戻っているのだ。
感極まって喉の奥が塞がる佐為に、低い声が耳元で再度警告した。
「一泣き毎に一発」
無表情で素振りをしていた光景が、ビュオッビュオッという効果音と共に脳内にリフレインする。センチメンタルな気持ちがじりじりと後ずさっていった。
「な、泣いてません、まだっ」
涙が溜まり始めてはいたものの、こぼれてはいない。ぎゅっと頬を庇うように身をすくめる。
呆れたのか、小さなため息が聞こえた。襟首を掴む手にひねりが加わり、佐為を振り向かせる。吊り上がった細い目の中の小さな瞳孔が、殆ど瞬きすることなく、ひたりと佐為を標的に定めていた。
「ひっ」
「――あなた借金があるんですよ。ですから、やりたいことをするのは返済の目処が立ってからにしてください」
「……しゃ、っきん……?」
寝耳に水としかいいようのない言葉に、佐為は瞬きを繰り返した。
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webclap
【蓮のような微笑み】
拈華微笑。
【宇】
そら、天。天地四方、空間の意。
執筆2014/03/08
改稿2017/09/25