ホグワーツ初日の夕餉は、いつの間にか皿の上に出現していた。誰にも給餌されていないのに、一瞬のうちに。
 目を疑ったが、肉汁や油の匂いを包み込んだ湯気は本物だ。上級生たちは早速とばかりに料理を取り分けはじめたが、私たち新入生は、皿の上の食べ物と、それを食べる上級生の口元を行き来するばかり。

 だって、怖くない?
 こげ茶色のソースがかかったローストビーフが薔薇のように盛り付けられた皿も、山盛りのマッシュポテトの皿も、茹でた人参やら豆やらが盛られた皿も全部、ほんの一瞬前まではどれも空だったのだ。セキュリティに厳しいホグワーツでは、物あらわしの呪文は使えないはずなのに。

 目の前にあったポテトだけ取り分けてみたものの、食べる勇気が出ない。フォークに挿したポテトを見つめていると、前に座っていたマクミランが愉快そうな表情を貼り付けたまま、大仰に眉と手の平を動かした。聞きたいことをどうぞ、と言うわけだ。
 別に私だけを対象としているわけではないのだろうが、他の新入生たちは「そんなこと常識ですから知ってますけど、聞きたい方がいるならお好きにどうぞ」とでも言いたげな澄まし顔を取り繕って動かない。そして食べない。仕方がないから、お言葉に甘えて聞いてみることにした。
 見栄をはるのは上流階級の大事な自衛手段だが、こういう見栄っ張りしかいない場所では、私のように見栄を気にしない人間にも、それなりに需要があるのである。

「ホグワーツって、物あらわしの魔法は使えなかったはずですよね」
「仰るとおり」
「じゃあ、これは一体どうやっているんですか? まさかとは思いますけど――食べ物を無から作り出したなんて、言わないですよね」

 無から食べ物を出現させるのは、魔法でも絶対に不可能。子供でも知っている常識だが、普通はできないことができてもおかしくないと思わせる何かがあるのだ、ホグワーツには。
 マクミランは肩を竦めた。クールを気取っているけれど、鼻の穴が少し膨らんでいる。そんなにも満足していただけたのなら、芝居がかった質問の仕方をした甲斐があるというものだ。

「いくらホグワーツでも、何もない所から食べ物を作り出すことはできないよ。これは物あらわしで送られてきているだけさ」
「でも」
「――ハウスエルフの魔法でね」

 それで、一気に納得がいった。
 あぁ、なるほど、ハウスエルフ。言われてみれば、確かにそれがあった。私は頷く。皆も頷く。聞いてしまえば、簡単な答えだった。

 しわくちゃになった宇宙人グレイと、スラム街のやせっぽっちの老人を足して割ったような見た目の魔法生物。みすぼらしい見た目に反し、彼らはとても健康で、意欲的で、ついでに有能だ。魔力も強い。自由に生きていけるだけの力は十分あるだろうに、なぜか人間の魔法使いに従属することに存在意義を見出している。不思議だ。
 魔法使いは、魔法生物を自分たちと対等の生命体だと認識していない。殺したハウスエルフの首を廊下に飾るだとか、人権を無視した胸糞悪いエピソードすら、珍しいものではないのに。

 私はハウスエルフが苦手だった。傅かれても困るし、家族が彼らを理不尽に怒ったりするのを見るのも、気分の良いものではない。それとは別に、魔法使いにそこまでして従属したがる理由が分からないのが怖いという感覚もあった。
 実はずっと昔に何か罪を犯していて、その罰として何千年もの間、魔法使いの下で働いて罪を償わなければならない、みたいなストーリーが隠れていたとしたら? いや、罪を犯していたならまだ自業自得な部分もあるかもしれないけれど、魔法使いに騙されてそういう契約をなされてしまったのだとしたら? 従順に仕事をこなす彼らが、腹の底に魔法使いへの憎しみをふつふつと募らせているのだとしたら――流石に妄想が過ぎる事は分かっているが、やっぱり怖いので、私は我が家のハウスエルフに若干媚びている。

「結構な人数分あるのに、すごいですね」
「まぁね。でも、ホグワーツにハウスエルフがどれくらいいると思う?」

 フォークに挿したままだったポテトを頬張り、暫し考える。うーん、うんうん、まぁ期待もしてなかったけど何の変哲もないフライされたポテトの味ですわ。さて、どれくらいだろう。

 必要なだけ募集できるメイドや執事とは異なり、ハウスエルフは仕えたい家を自分たちで決める。決めたからといって勝手に住み着くわけではないので、最終的に彼らを受け入れるかの判断は魔法使い側に委ねられているものの、一番最初はハウスエルフこそが選ぶ側なのである。
 その基準は、脈々と続く旧家であること。
 ハウスエルフを持つ事が、魔法使いにとってある種のステータスになるのはこのためだ。

 ではホグワーツ魔法学校はどうかというと、創立されたのは今から約一千年ほど前のことなので、歴史としてはかなり長い。参考として、同程度の歴史を誇る我が家にはハウスエルフが四人仕えているわけだが、会話の流れから言っても、これよりはずっと多いのだろう。全寮制の学校では、ハウスエルフの愛するお仕事にも事欠かないだろうし。

「うーん、三十位?」
「いくらホグワーツでも、そんなには居ないんじゃないかな?」
「じゃあ、どれくらい?」
「十とか?」
「二十」
「五十はいるかもしれないぞ」

 少しおどけたような口調に、誰かがまさかぁ、と返して笑いが起きる。マクミランも笑った。

「答えは、百以上」
「百!」

 ウワー、さすがホグワーツ。新入生たちもこれには感嘆のため息をついたのだが、中に一人だけ表情の変わらない者がいて、皆を沈黙させた。

 私は、否、私たちは、と言うべきだろうか。
 私たちは戸惑っていた。そして、観察していた。彼がスリザリンに組分けされたときからずっと。気負いのない表情で我々の間に座り、突如無から現れる食事への警戒も、ハウスエルフへの納得も、考えられないほど多くのハウスエルフを要するホグワーツの歴史にも一切反応せず、淡々と食事をしている様子を、じっと。素知らぬふりをしながら。
 そして私たちは考える。私たちは彼を知らない。彼を見たことがない。反応もなんだかおかしい。焦っているわけでも緊張しているわけでもないけれど、まるで常識を知らないかのような……まるで、魔法使いの文化を知らないかのような。

 スリザリンのテーブルに横たわる、雄弁な沈黙。
 異質な存在を見つめる複数の眼差しは、まるで一つの意志をもつ生き物のよう。
 空気の密度が濃くなったかのような沈黙に、彼の両脇を固めていた女の子たちが慌てたように弁護をはじめたが、わかったのはダイアゴン横丁や列車のコンパートメントで彼に出会ったという彼女たちが、既に彼に夢中になっているということだけ。
 純血思想を植え付けられて育ってきた少女たちをかくも簡単に夢中にさせる位、なるほど美しい少年だった。

「血筋がなんであれ、帽子に選ばれた以上はスリザリンにふさわしいということだろう」

 どことなく他人向けの笑みを貼り付けつつも、マクミランが立ち上がる。

「我々は仲間だ。わからないことがあれば頼ってくれたまえ。えーと」
「……トム・リドルです」
「クラウス・マクミランだ、よろしく」
「こっちはアダム・ヤクスリー。よろしく、色男君」

 マクミランに続いて、他の上級生たちも挨拶を始める。視線の動き、笑い方、声音――その端々に、選ばれて生きてきた人間らしい傲慢さが掠めるようにして現れる瞬間はあるが、総じて見ると、彼らはトム・リドルを受け入れようとしていた。
 とりあえず、準スリザリンとして。

 準スリザリンでも、スリザリンはスリザリンだ。
 むしろこれだけ美少年であると、多少傷のあるほうが可愛がるには丁度良い。彼と年の近い女の子たちは俄然色めき立った。そしてライバルの多さに、どこか本気にもなった。遅れをとってはいられないとばかりにリドルに群がり始める。

 リドルは魔法界には詳しくないようだったが、頭の回転が早く、聞き上手だった。あれだけ沢山の女の子に囲まれて、勝ちもしないが負けもしないということができる男の子はなかなかいないと思う。しかも、実際には収穫は殆ど無かったのにもかかわらず、女の子たちは皆満足している。
 食事の時間が終わり、皆でスリザリン寮へと向かう道すがらでも、リドルの素敵さについて、はしゃぎながらお互いを牽制する女の子たちが複数見られた。あっという間に人気者である。ほぼ女の子だけだけれど、一つ間違えれば孤立どころか異端児として虐げられる未来もあったのだから、結果は上々だと言えなくもない。

 スリザリンの談話室は、地下にあった。
 壁も天井も荒削りの石を積み重ねて作られており、奥に二つの小階段が見えている。石が熱を吸収するのか、それとも何か魔法でもかけてあるのか、少しひんやりとしていた。地下という場所も相まって、長くいると病気になりそうな雰囲気だ。その代わりといわんばかりに大きく作られた窓の先には、ホグワーツの隣にある湖の底が広がっているが、これも窓の外側から水の圧力がかかっていることをひしひしと感じてしまって、圧迫感を倍増させているだけにしか見えない。
 天井から吊るされた緑色のランプと湖の水が共鳴して、室内にゆらゆらとした緑色の光を作り出しているのだけは幻想的といえなくもないだろうか――という思いはその後すぐに裏切られた。
 人間の頭よりも大きな目玉を持つイカだかタコだかが、こちらを見ながらスーッと横切って行くのを黙って見送った私は、窓から極力離れた場所に置かれていた大きな背もたれのあるソファにその身を隠すことにした。この窓、絶対壊れないよね?

 談話室では、監督生から寮の簡単な説明が行われた。長い一日に皆疲れていたようで、その後は特に留まることもなく、挨拶もそこそこに自室へと戻っていく。
 私はというと、たまたま腰掛けたソファが思った以上に心地よかったので、混雑がすぎるのを待つついでにフィット具合を堪能していた。程よい距離の場所には暖炉もあるし、冬場は争奪戦になりそうだなぁと残念に思う。人数分のソファがあればいいのに――そんなことを考えていたら、いつのまにか人の声が遠くなっていた。どうやら、少しうとうととしていたらしい。
 立ち上がろうとしたところで高い声が聞こえてきた。まだ人がいたのかと、ソファの背もたれからひょいと後ろを覗きこむ。数人の女の子が、寮に向かう階段を登っているところだった。頬を赤く染めて、お互いを少し小突きあったりして、楽しそうだ。彼女たちは最後に談話室を振り返ると、愛想よく挨拶をして、そのまま小さく叫びながら駆けて行った。

 勿論、私にではない。リドルにだ。彼は人のいなくなった談話室の真ん中に立ったまま、暫くモナリザのような笑みを浮かべていた。貼り付けたような、けれど女の子たちを優しく見送っているように見えなくもない、なんとでも受け取りようのある笑み。それが、ゆっくりと俯いていく。
 部屋全体に広がるおぼろげな緑色の光が彼の上で濃い影を作り出し、彼の表情が、眼光が、ゆらゆらと揺れる。いつのまにか、口元から笑みは消えていた。

 彼は、皆が消えていった階段の先を睨みつけていた。圧倒されるほどの強さで、目を背けたくなるほどに全てを剥き出しにして。
 その表情を、私はなんと呼べば良かったのだろう。少なくとも、今の彼を美少年と呼ぶ人はいないだろう。あまりにも――憤怒、鬱憤、怨嗟、拒絶、侮蔑、復讐の意志――どんな言葉でも、どんなに言葉を足しても、彼のあの表情ほど雄弁には語らない。俯いたまま上を睨みつけているせいで、目の半分以上が白目を剥いていた。形の良いはずの唇は醜く歪み、声にはならない呪詛に濡れている。ゆがんでいるのは唇だけではない。彼の表情が、身体が、奇妙に捻れてさえ見えた。
 粘ついていた。燃えていた。恐らくは、消えることのない炎だろう。
 彼自身を焼きながら、周りの全ても嘗め尽くす、冷たく執拗な炎。

 どくどくと走る心臓を感じながら、私は大きな背もたれに隠れるように身を縮込めた。忘れることのできない、鮮烈な記憶である。










 あの夜に見せた怒りを、リドルは巧妙に隠した。とびきりのハンサムで、頭も運動神経も良いのに性格も良いというのが、学内での彼の評価だ。スリザリンでは旧家の出ではないという問題が暫く残っていたが、それも孤児だから親がわからないという逃げ道を提示された瞬間、掻き消えた。他の寮生からも羨望の眼差しを向けられるようなパーフェクトな男を、スリザリンのものにしておきたい焦りもあっただろう。
 焦るように、リドルが仕向けた。

 自分の価値を周りに知らしめ、負の部分には蓋をして、生きやすい環境を整える。
 孤児である彼のほうが、純血出身の私よりも、よほどスリザリンらしい生き方をしていた。彼にとっては服装すらも、その手段の一つであった。

 機密保持条約が制定される以前まで、マグルの上層部と魔法使いの間には付き合いがあった。その名残りで、旧家出身にはマグルの服を嗜むものが多い。ただ、根底にあるマグルへの蔑視により、マグルの洋服を着る事が上層階級の特権だという意識までは無かった。彼らはただ、マグルの街を歩かなければならなくなった時、自分の衣服がマグルに笑われる事を許せなかっただけなのである。たとえそれが、無理解からくるものだとしても。
 一方で、そんなことを気にする魔法使いはそれこそ旧家出身の者だけであったので、結果としてマグルの服を着るような魔法使いは旧家の者だという認識も、魔法使い達の中で確かに生まれていた。リドルが利用したのは、その不文律である。
 古来から魔法使いに好まれているローブを着ていたのは、最初の数ヶ月だけだった。

 アイロンがしっかりとかけられた黒のスラックス、襟に糊がきいている真っ白なシャツ。手の込んだ細工を施されたカフスボタンに、磨き上げられた革靴――完璧な着こなしだった。
 マグルの洋服に詳しく無い者、馬鹿にしていた者にすら、その装いは眩しく映った。ホグワーツではマグル風の服装が流行りだしたが、彼ほど品よくマグルの服を着こなす者が出てくる事は無かった。他寮生によっては、彼を旧家の人間だと勘違いする者までではじめ、やがて、彼が孤児だという声すら聞こえなくなった。

 そんな風にして、ホグワーツでの時間は矢のように通り過ぎていった。本当に早かった。気が付くと一ヶ月がたっていたので驚いたと思ったら、また一ヶ月が過ぎていて二度驚くという事もしばしばだったほどだ。一ヶ月が早い。
 なんとかの法則で、年を取れば取るほど主観的な時間の長さはより短くなるという説を聞いたことがある。記憶は不確かだが、魔法生物飼育学のおじいちゃん先生にちょっと尋ねてみたところ「十年が早い」とおっしゃっていたので信ぴょう性は高い。
 私が一ヶ月単位で驚いている一方、同級生の子たちの驚き方がせいぜい一週間単位なのは、私に少々特殊な事情があるからだろう。

 こんなことを言い出せば聖マンゴ病院に軟禁されるのは間違いないので誰にも言った事はないのだけれど、私の年齢は見た目通りのそれとは少々異なる。少なくとも、精神年齢は。
 別に、大人ぶりたいわけではない。実際問題として、この場所で「私」として生を受けてからの人生の記憶の前に、「別の私」として生きた記憶が、私の中に蓄積されているのだ。さながら、地層のように。

 「別の私」は21世紀に生きていた日本人だった。今は20世紀半ばなので、未来の記憶を持っているということになるのだろうか。もっとも、このまま私が生き続けていると、69歳になった年に日本で「別の私」が産声を上げるということになってしまうので、本当に単純な未来なのかどうかまでは分からないが。
 分からないことは他にもある。というか、この件に関してはわからないことのほうが多い。唯一確かなのは、魔法使いとしてイギリスに生まれた私では持っているはずのない知識が、私の中に存在するという事だけだ。

 別の私、別の私、と言っているけれど、実際の感覚として別人だという意識はない。単に生きている場所や肉体が異なるだけで、私にとって21世紀の私は、今現在の私と地続きで「自分」なのであった。それは、「別の私」が21世紀で培った知識や常識、アイデンティティが、今の私の中に既に根を張ってしまっているということと同義でもある。

 国も時代も違うとなれば人の考え方に共感することも難しい。
 人を使う事になんの疑問も感じない旧家に生まれたのに、ハウスエルフの扱いに戸惑う。マグルを差別する風潮になじめず、皆が喜ぶ食事を同じように喜べない。会話の中の細かい所に違和感を抱く――身の周りで起きている全てのことが、夢幻のように感じる。

 自然と独りを好むようになったが、そんな私をスリザリンの面々はあっさりと受け入れてくれた。魔法界にはマイペースな人間が多く、中でもスリザリン生は群れるか単独行動を好むかの両極端であることが多いため、私のそれも、よくある事として認識されたのだ。
 おかげで、機会があれば軽い話題で共に時間を過ごすことも出来たし、授業でペアを組む相手にも困らなかった。日本ではちょっと難しい「お一人様」の距離感をストレス無く実行できるのは、数少ないここの良い所だと思う。

 しかし、ど田舎の全寮制の学校でひとりぼっちとなると、物凄く時間が余る。暇に任せて特別興味もないのに魔法薬学の研究に凝り性を発揮していたら、それまで特に理論性はないと言われていた魔法薬のレシピに実は理論が存在していることに気が付いた。あまりに膨大、かつ地道な研究が必要とされるため、数年をかけても検証ができたのはごく一部の魔法薬についてだけであったが、現在の常識を覆したという意味で、我ながらなかなかのものだったと思う。
 いい気分で検証結果を作り、誰かに自慢をしたくなって談話室にいる先輩を捕まえて読ませてみたら思いの外好評で、スリザリンらしいツテからあれよあれよという間に魔法薬学雑誌『実践魔法薬』に掲載された。そして、入学からの五年間、目立たず生きていた私に、突如としてスポットライトが浴びせられたのだ。

 その頃の私は、スポットライトに照らされた部分以外は仄暗い舞台の上で、固い椅子に縮こまるようにして座っているようなものだった。周りの賞賛の声に首をすくめ、言葉少なに周りへの感謝の言葉を伝える。――単なる日本人的事なかれ主義の反応でしかないのだが、これがまた謙虚だと好意的にとられてしまう。
 私だって別に、本気で誰かに感謝をしているわけではないのだけれど、こういう所がツーカーとはいかないのが、文化の壁か。

 これまでは特に私を気にかけてなどいなかった魔法薬学の教授からも急に覚えがめでたくなり、お気に入りの生徒を集めて開いている会合へも招待されてしまった。とは言え、今の私はマイペースという言葉に甘やかされているお一人様系スリザリン生。ちょっとはノーも言えるようになっているので勿論行かなかったが、角を立てないように断るのは非常に骨だった。分かったと言ってからの要求がつきないとは、どういう事だ。

 なんとか教授を振り切り、すっかりうんざりとして部屋に戻ると、非日常は私室にまでも忍び寄っていた。どうやって女子寮に侵入したのか、リドルが優雅に私の椅子に腰掛けていたのだ。

 かつての美少年は、今や文句の付け所のない美青年になっていた。ありふれた備品のボロ椅子も、リドルが座ると雰囲気のあるシンプルなアンティーク調の椅子に見えてくる。スラックスの裾と革靴の間からちらりと見える靴下の幅までもがスタイリッシュだ。
 
「これ、続きはどこにあるの?」

 黙り込んだ私に、彼は挨拶も無いまま持っているノートを持ち上げる。例の、魔法薬学の研究に関するノートだ。数年分のノートなわけだから量もそれなりにあるのだが、ベッド下のトランクに鍵をかけて保存していたはずの過去のノートは既に机の上に積まれている。無言のまま、私は持っていた鞄から一番新しい一冊を取り出した。

 リドルの白い骨ばった手がノートを掴む。ノートを介して、彼の指の重みや筋肉の動きが伝わってきた。ぴくりと震えた私の手から、あっさりとノートが引き抜かれていく。
 リドルは立ったままの私の存在など気にかける様子もなく、渡されたノートに目を通しはじめた。

 人に囲まれていないリドルは珍しい。
 ノートを捲る乾いた音を聞きながら、私は見つめていた。椅子に座ったままの彼の旋毛を。しっとりとした輝きを放つ黒髪を。形の良い頭を。その下に覗く高い鼻筋を。密度の濃い長いまつ毛を。見つめる、じっと。あの日の憎悪の面影を探して。
 けれどそこには何もない。彼の美しい造形が、全てをひたりと閉じ込めている。

「ふぅん……」

 程なくして、彼は顔を上げた。モナリザのような笑みを浮かべて。

「今度はベゾアール石メインで検証してみてよ」

 彼の瞳が私を見つめる。
 その、瞳。そこまで顔を近づけられたわけではないのに、一本一本のまつ毛の生え際の皮膚の膨らみまで迫ってくるかのような。私の中を覗きこむ瞳の奥に、内側の火がどろどろに渦巻いている。

「あれなら、もっと色々な事ができそうだと思わない?」

 薄く赤い唇がゆっくりと蠱惑的に動く。閉じ込められた憎悪を含んで、とても甘い。

 ふと、リドルの視線が机に向けられた。圧迫感が消え、自分が呼吸を忘れていたことに気がつく。息を吐いてリドルの視線の先を探ると、そこには手の平ほどの大きさの蜘蛛がいた。ハート型にも見える赤い斑点を背負っている。
 時折この部屋に迷いこんでくる、常連だ。あとで外にでも出すか、と蜘蛛の動きを見つめていた私の前で、リドルの手が動いた。蜘蛛の上に、落ちる――影、が。

 あ、と思った次の瞬間には、蜘蛛はべったりと机に伸ばされていた。ハートの斑点は縒れて潰れて体液に塗れ、もう何の形だったのかの見分けもつかない。

「ああ――君のペットだった?」

 手についた体液をハンカチで拭き取るリドルは、そう言って微笑んだ。これが、今日見た彼の笑顔の中で最も無邪気な笑みだった。

 余談であるが、部屋を出て行く時、彼は当然のように私のノートも持っていった。ノートが返ってくることは、勿論なかった。










 私たちが卒業した年、マグル界では漸く第二次世界大戦が収束しはじめた。日本には核が二つ落とされたが、魔法界の反応は鈍いものだった。機密保持法が制定されて以来、魔法使いはマグルとは距離を置いている。世界戦争も、所詮は対岸の火事でしかない。彼らは、ロンドン大空襲にさえ無関心だった。
 だが、戦争はマグル界だけのものとは限らない。あの日から――もしくはもっと以前から密やかに燃えていた魔法界の火種は、静かにその力を大きく、そして強くしていた。物言わぬ犠牲者を飲み込みながら。

 卒業からしばらくすると、リドルの噂が密やかに聞こえてくるようになった。彼は今、ヴォルデモート卿と名乗っているらしい。「卿って」と私は思った。未来の日本で様々な情報に触れる事ができていた私は、中二病に敏感だ。
 自称卿の事を、魔法使いたちも初めのうちは馬鹿にしていたと思う。中二病だからではなく、生意気な、という意味で。その間にリドルは、ポリジュース薬で仲間の姿を変えてターゲットに接近させたり、人の心を洗脳して裏切らせたりと、蛇のように静かに、狡猾に。魔法界に毒を流し込んでいった。
 やがて毒がまわりきると、リドルは一転して自分のしていることを世間に隠さなくなる。行方不明者の人数が減る代わりに、死者数が増えていった。

 純血主義を説き、反対勢力と非魔法族を物のように殺すリドル。
 ヒトラーは自殺するまでにユダヤ人を六百万人殺したと言われていたが、リドルはその生命が終わるまでに、マグルを、そして魔法使いを一体何人殺す事になるのだろうか。六百万では済まないだろうな。焦土で一人立ち尽くす彼の姿が見えるような気がする。

 この頃になると、彼の存在に強い危機感を持つ魔法使い達が台頭しはじめた。危機感を持った理由は必ずしも道徳心からとは限らなかったが、ヴォルデモート卿を引きずり下ろすという目的は同じだったので、対抗勢力としてそれなりにまとまった力を持っていたと思う。
 私の父もその一員で、家で暇を潰していた私にも、自動的に仕事が振り分けられた。仕事と言っても、週に数度情報の交換に行くだけのことなので、大した手間ではない。その日も唯々諾々とお仕事をしてきた私は、いつもどおり自宅の門の前に姿現しをし、今。
 燃え盛る我が家の前で立ち尽くしている。

 熱と焦げと危険の臭いが、辺りに充満していた。
 星の瞬く音が聞こえてきそうなくらい静かな夜を、唸るような炎が蹂躙している。頬が熱い。喉も熱い。吸い込んだ空気の中に炎が混じっているかのようだ。熱気で目が乾く。目を眇めた私の前で、メキメキと音を立てて屋敷の一部が大きく崩れた。
 上空では、頭の大きさほどもある煤の破片が、空気の合間を泳ぐように舞っている。
 風が強い。

 綺麗に整備されていたはずの庭は、あちこちから飛んでくる小さな火が燃え移って見る影もなかった。火達磨になった人影が一つ、うめき声を上げながら動きまわっている。あれは誰だろう。父か、兄か、それとも母か。炭化した肉がこびりついた棒人間みたいなシルエットでは、全く想像もつかない。

 フラフラと門に一歩近づいた私の喉元に、四方から杖がつきつけられた。いつのまにか、骸骨を模した仮面をつけた黒ローブの男たちに囲まれていたのだ。骸骨の仮面って、と私は思ったが、表情には出さなかった。誰何も勿論しない。旧家の魔法使いたちは、いくらなんでも自分たちにまで楯突きはしないだろうと高を括っていたようだけれど、リドルにそんな肩書きが関係ないことはよくわかっていた。

 手の震え、呼吸の動きが杖に振動を伝え、私の喉元に当たっては離れていく。丁度喉仏のあたりを突かれたのが苦しくて顔をそむけたら、反抗すると思われたのだろうか、後ろの杖が意図的に強く私を牽制した。
 身体が緊張にひんやりとしている。死がすぐそこにある。

 怖くないとは言わない。けれど、回避したいとも思わなかった。
 これで終わりだというのなら、それでもいい。今までは見たくなくて目を閉じていたけど、目を閉じる必要さえなくなるというだけのことだ。

 覚悟は決まっていたのだが、意外なことに制止の声がかかった。真っ黒な壁が身じろぎをし、一部が開く。開いた空間の先に、炎を背負ってリドルが立っていた。

 卒業した頃よりも少し、髪と背が伸びている。それから、凄みも出ただろうか。隠さなくなっただけかもしれない。
 相変わらずマグルの正装が良く似合っている。こんな夜だというのに、きれいな形の革靴はピカピカに磨き上げられていて、まるでこれからパーティにでも行くかのようだ。それとも、彼にとってはここがパーティ会場なのだろうか。

「やぁ、こんばんは」

 リドルが挨拶をした。少しは常識を学んだらしい。それとも、その程度の事をしてやってもいいと思う位には余裕ができたのか。
 炎が作る影と共に、リドルの表情もゆらゆらと揺れる。微笑んでいるように見えたかと思えば、牙を剥いているようにも、無表情なようにも。

「ベゾアール石の研究結果が、そろそろ出たかなと思ってね」

 リドルが私に向かって近づいてくる。一歩足を踏み出すごとに、地面に敷かれた砂利が音をたてた。
 炎の音が遠くなる。手を伸ばせば握手ができる距離まで近づいて、私を見下ろしたことで、もう一つ、大きな変化があったことに気付く。眼の色が、違う。無機質な赤い虹彩が、私を覗きこんでいた。
 酷薄で、自分だけを愛している瞳。己を馬鹿にするものすべてを燃やさずにはいられない炎。

 瞳の色が変化したことを、私はあっさりと受け入れていた。内側があんなにも禍々しく燃えさかっているのだから、外側が同じ色になっても、何の不思議もない。
 現実の炎がゴウゴウと音をたてている。いつの間にかうめき声は聞こえなくなっていた。ちらりと目をやると、黒焦げの遺体が噴水の近くで横たわっている。

「……おかげさまで。資料は灰になってると思うけど」

 肩をすくめると、控えていた仮面男達が気色ばんだ。
 随分と崇められているようだ。新入生だった頃は、女の子たちのお人形様でしかなかったのに。

「なくても問題ないんだろう?」

 手を差し出すリドル。
 どちらを向いて倒れているのかもよくわからないような黒焦げの遺体が、私を凝視する。よもや裏切るまいなと私を睨みつけ、無念を叫ぶ。
 そんな男!
 たかだか少々優秀だったというだけの、孤児如きに!
 私を、この私を殺した男に!

「……ふふっ」

 口角が自然と持ち上がり、気がついたら笑い声が漏れていた。

「ふふふふふ、ふふっ、あはっ、アッハッハハハ」

 困った、笑いが止まらない。腹の底からこみ上げてきて、おかしくておかしくて仕方がないのだ。苦しいのに、自分ではどうしても止められない。お腹が痛い、お腹が。
 周りを取り囲んだままだった仮面達から、人間らしい感情の揺らぎを感じた。狂ったとでも思ったのか、杖が引き気味で、それがまた、おかしい。
 ヒーヒーと腹を押さえながら、ごめんね、と応えてみる。

 ごめんね、誰かさん。
 私、あなた達の死が悲しくない。ずっと、あなた達を理解できず、愛せなかった。奇妙な味付けの食事も、気持ち悪い魔法生物も、女だから魔法使いだから旧家だから年下だから年上だからこの寮だからと締め付けられながら締め付けるこの世界も、戦争と飢えに耽溺している国々も、あなたたちに貰った身体も、名前も、私を知る人のいない日本も、私が知らない日本も、全て。私から、 から全てを、人生も未来も過去も友人も恋人も私自身も名前さえも奪う、
 奪ったことにも気づかないお前たちがッ!

 悲鳴のような音をたてながら屋敷のシルエットが崩れ、遺体の上に落ちていく。瓦礫に埋まって、もう何も見えない。私に何を押し付けることもできない。

 大きく息を吐き、背筋を伸ばして立ち上がると、もう笑いの発作は過ぎ去っているのに、仮面たちが後ずさった。
 ただ一人、リドルを除いて。

 悠然と構えているリドルに仮面たちが惚れ直しているようだけれど、別に驚くようなことではない。私の中にある傲慢と憎悪と狡猾に、ずっと前から気づいていたというだけのことだ。
 今、差し出した手をそのままに私の答えを待っているのも、単なる形式。互いにとって分かりきった答えを、可視化しようとしているだけのこと。

 そう、互いにとって分かりきった答えだ。
 傲慢と憎悪と狡猾で構成され、破壊と破滅の道を行く二人にとっては。

 骨ばった手に自分の手をそっと乗せる。
 冷たさと熱さが同居する、この手、この美しい毒――ノート越しでなしにこの手を取りたいと、ずっとずっと、思っていた。








         







大好きな文字書きさんへのお誕生日プレゼントとして書かせていただきました。
リクエスト:リドル夢
ロゴの絵:フランツ・フォン・シュトゥック『罪』

2017/10/18 追記
この作品を漫画化していただきました!
正確には、漫画の練習に使っていただけた、かな。
いずれにせよ、嬉しいです。
私の文章よりも笑いの要素があって、主人公もかわいいし、表現も素敵で、おすすめです。
私ったら、思っていたより素敵なお話を描けていたのでは? と勘違いしそうになる。



2014/11/04 Happy Brthday!
2014/11/07 改稿
2015/07/02 改稿
2017/10/18 改稿